浄泉爺のブログ

浄泉爺の考え事を記録します(研究のこと、仏教のこと、教育のこと、ドローンとか)

如是我聞

念仏の手でハンドルをとれ。 

この頃車には守り札がある。災難除けだ。向うから災難がある様に思うが、存外こっちにある。禍を招くと言うそれがわからんで、災難除けの守り札があっても駄目だ。だがそれなら数珠をかけていたらよかろうとて、念仏は呪【まじな】いじゃない。それは念仏じ…

念仏申すが手にて候。

狂い犬は手をあげるほど吠えたてる。吠えれば吠えよと相手にならぬことじゃ。われが狂い心を相手にして騒ぐほど始末がつかぬ。お念仏申せ! われを相手にするな。吠えれば吠えれと念仏申すが手にて候。 如是我聞ー上山城守遺語ーより じいちゃんになにがあっ…

いけん所に、お念仏

大概よいものを出そうとする。よさを見せにかかる。よいものになってかかるが、よいになったらお念仏はない。いけん所に、役立たん所にお念仏がある。 如是我聞ー上山城守遺語ーより 城守の言葉を眺めていて、自分を外から見るということが大事なのだろうと…

悠々と生きる

心の底に真実なる喜び、純粋な喜びを感じて悠々と生きてゆきたい。 如是我聞ー上山城守遺語ーより そうありたいと思う。

喜んで死ぬようになるべきだ

トルストイは「人間は泣いて生れたが周囲は喜んだ。死ぬる時は周囲は泣いているが、喜んで死ぬようになるべきだ」と言った。 如是我聞ー上山城守遺語ーより トルストイをそもそも知らなかった。「戦争と平和」は聞いたことがあるが読んだことは無い。知らな…

チャンネルを置く

チャンネルを見違えるとテレビは出んぞ! 弥陀の本願を聞くのは、善人の位置にチャンネルを置いては聞こえぬ。 如是我聞ー上山城守遺語ーより 私は殆どテレビを見ない。これはそうしようとしているわけでは無く、見たくないというのに近い。面白くない。 た…

出来なかったでよかった

今は眼もかすみ、頭もにぶく物を言うも鈍くなって、どう思っても自惚れもきかなくなって来て、ただ仏の仰せに願うて生きるのみだ。若い日にはいろいろと志すことが多かったが、皆達することが出来なかったでよかった。もしもその通りに達することがあったら…

道心

仏法の興隆は僧侶の道心による。参る人がすくなくなるなら僧侶の懈怠(けたい)への御意見と思わねばならぬ。 如是我聞ー上山城守遺語ーより いくつか、私には難しい言葉があるので、まずはそれらから。(出展は macOS 標準の辞書アプリ(スーパー大辞林)よ…

「知る」と「心得る」

知っていることを心得ていると思い上がりをして、高い所から仏法をわめき立てている。群集はその芸当に見惚れている。まるで、人気芝居じゃ。その芸当の巧みさについて廻って、説く人も聞く人もざわざわして身についていない。 如是我聞ー上山城守遺語ーより…

臭いもの

私が死んだのちに、後の人よりこんな人であったと、悪いことでも善いことでもいわれることは私の臭みだ。人間はそんな臭いものを残そうとしている。 如是我聞ー上山城守遺語ーより 悪いことでも善いことでも臭いもの。 自分のことを考えると、死んだのちのこ…

人生を楽しむとは

人生を楽しんで通ろうとは思わない。幸か不幸か乗り物に酔うので遠い旅に行ってみようとも思わぬ。私はただこの油谷町の人草として、ここで生まれてここで死んでゆく。それで寂しいとも思わぬ。それで生くるよろこびを知らせてもらっている。ありがたい人生…

よく聞いて、しっかりする身になろうとするのが危ない。

よく聞いて、しっかりする身になろうとするのが危ない。 如是我聞ー上山城守遺語ーより 短いのでそのままタイトルにした。 このような言い方は真宗の法話ではよく聞く。もちろん言い方は色々で、例えば善い人になろうという気持ちの裏には善く見られたいとい…

気取ったことをすまい

気取ったことをすまい、上手につくらうまい。しゃれる事がみにくいことだ。つくらわず飾らず、あるままに! 如是我聞ー上山城守遺語ーより とてもイタイなぁ。心に刺さるというか、苦しいなぁ。 人というのには色々な魅力があるけれども、城守がいう「あるが…

愚者と智者

智者と思うのが愚者で、愚者を知るのが智者だ! 如是我聞ー上山城守遺語ーより 自らを愚者と知る。浄土真宗の基本である。そのようにありたい。 さて、この文章、??となるかもしれない。これは、文章の構造が、 「この文章は正しくない」 という文章の構造…

仕様が無い

仕様がないーー家で若い者に言っても聞いて呉れぬ。どうも仕様がない。仕様がないから仕様がないで終っては仕様がない。家の内では祖母さんが念仏に生きた。それが孫子供を育てる。その子供が、郷里の祖母に手紙を書いて「この手紙を読んでから送った小包を…

仏教と仏法

仏教は頭に聞く、仏法は身に聞こえるものじゃ。 教が法になるには機がある。 如是我聞ー上山城守遺語ーより 仏教と仏法。なるほどそういうことかと少し分かった気がする。 仏教は以前は仏道といって、文字通り仏になる道であると聞いたことがある。一方で、…

どえらいこと

お念仏 只念仏して弥陀に助けられることは、やさしい道で易行門【いぎょうもん】と言わるる。だがそれが反【かえ】って不安である。難信である。奥深いものを探ろうとする。だが只念仏してと言うことは他力の至極の声である。衆生の涯【はて】にかかる願であ…

仏法を説く

仏法仏法を説くものは多い、これを論ずるものも多い。だが仏法に遇【あ】うものはすくない思いがする。講釈の仏法、説明の仏法になってそれで仏法が証明されようか。仏法は念仏に証明されている。学問や理屈で証明されるものじゃない。我れに離れぬ生きた法…

如是我聞

私の祖父は上山城守という。浄土真宗本願寺派 鯉原山浄泉寺 第14世住職。法名は、自然院釋城守。昭和56年8月22日往生なので、私が11歳時に亡くなった。 よく覚えているのは、夕刻の鐘をつくのに合わせて、数の数え方を教えてもらったこと。波打った鉄板が鐘…