浄泉爺のブログ

浄泉爺の考え事を記録します(研究のこと、仏教のこと、教育のこと、ドローンとか)

愚者と智者

智者と思うのが愚者で、愚者を知るのが智者だ!

如是我聞ー上山城守遺語ーより

 

自らを愚者と知る。浄土真宗の基本である。そのようにありたい。

 

さて、この文章、??となるかもしれない。これは、文章の構造が、

 

「この文章は正しくない」

 

という文章の構造をしているからだ(自己言及のパラドックスと呼ばれる)。

 

「この文章は正しくない」という文章は正しいのだろうか?正しいとすれば、この文章は正しくないという書かれている意味に合わなくなり、矛盾が生じる。正しくないとすれば、この文章は正しくないという意味が正しくないのであるから、正しいこととなり矛盾が生じる。この文章というたかちで、自己言及をしているために生じるパラドックスである。他のわかりやすい例は、「この壁に落書きをするな」という壁に書かれた落書きなどがある。

 

この手の話は、以下の高橋昌一郎氏の次の本が分かりやすい。

ゲーデルの哲学 (講談社現代新書)

 

上記の本は少し難しい部分もあるので、同じく高橋昌一郎氏の次の本もおすすめである。こちらは、複数人の対話形式で書かれていて大変読みやすい。その他にも数冊○○の限界という限界シリーズがあり、それら全て名著であると思う。

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)

 

 

智者と思うのが愚者で、愚者を知るのが智者だ!

 

については、少し構造が先の文よりは複雑で、自己言及が智者なのか愚者なのかが入れ替わる構造になっている。

 

自分を愚者としれば、自分が智者と言えるかもしれないが、そうなれば、自分を智者と思う愚者となってしまい、結局愚者である。が、愚者であると知ったのでやはり智者であり、、と無限ループにいたる。

 

ただ、前半思うで後半知るとなっていて、これらの捉え方によっては無限ループが回避できているのかもしれない。つまり、思うと知るは別の概念で、智者と思いつつも愚者と知ることができるといった状態。それらは同時に存在しうるという立場。

 

仏法を語る文章や説法にはこういった構造が多く、??となることがよくある。ただ、実際問題として、そういうものかもしれないとも思う。例えば今回の例でいえば、我々人間は、自分を智者だと思いつつ愚者であるとも認識しており、結果、人間には善悪の判断が正しくできないというのと同様に、そもそも愚者・智者を人の知恵の中で区別することはできないのであろう。一方で、仏は人全てを愚者として扱いつつ、それらを救おうとされるのであり、区別はない。区別がないから愚者も智者もそもそも無いのだ。

 

そう思うと、なんだか少し楽になるような気がするから不思議だ。

 

わかったと思うのはわかってないことであり、わからないと知ることがわかることだ

 

こういう事も言われる。少しわかった気がしたが、そういうことでもないのだろう。

 

とくに仏法は、わかるということではないというのは「仏教は頭に聞く、仏法は身に聞こえる」という、以前紹介した城守の言葉に重なる。