浄泉爺のブログ

浄泉爺の考え事を記録します(研究のこと、仏教のこと、教育のこと、ドローンとか)

如是我聞

私の祖父は上山城守という。浄土真宗本願寺派 鯉原山浄泉寺 第14世住職。法名は、自然院釋城守。昭和56年8月22日往生なので、私が11歳時に亡くなった。

 

よく覚えているのは、夕刻の鐘をつくのに合わせて、数の数え方を教えてもらったこと。波打った鉄板が鐘の横の壁にあったが、そこに木片をおいてずらしながら波の位置に対応づけて回数を数えた。始まりと終わりの位置にはチョークで印がしてあった。それが結構楽しくて、爺ちゃんと鐘をつくのが楽しみだった。爺ちゃんに一人でついてこいと言われたこともあった。その時は自分で真面目に木片をずらしながら数えた。今この文章を書いていて、少し涙がこぼれた。懐かしい。夕刻の鐘つきは暗く恐ろしかったなあ。その後、大学以降、数学関係に興味を持ったことはその影響かもしれない。

 

また、釣り屋の前に大きなキンモクセイの木があって、その手入れを一緒にやった。脚立に登り、上の方も刈り込んだ。爺ちゃんより先に行って刈り込んで、刈り込みすぎて怒られた。木の下には穴が多く開いていて、セミの幼虫がはいでた後だと聞いた。夜中に観察した記憶もある。セミが幼虫から成虫に変態する様は恐ろしく不思議で、生物にたいそう興味をもった。今の専門が数理生物学的なところにあるのはその影響だろう。

 

当時、祖父・祖母は夏場には蚊帳をつって寝ていたが、その中に入る入り方など教えてもらった。爺ちゃん、婆ちゃんの匂いがしたが、それも嫌いではなく、よく一緒に寝ていた。今思い出すと、ただただ懐かしい。

 

さて、その祖父城主が晩年に小さなノート数冊に様々書き残していたそうで、祖父の没後にそれらを父大峻がまとめたものが「如是我聞 ー上山城守遺語ー」だ。

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如是我聞ー上山城守遺語ー 上山大峻編 永田文昌堂

自費出版(1983年第1刷)で、その多くはご門徒様に配ったため、もうほぼ残っておらず、この写真に撮った実物本(これは、2009年の第3刷)も父大峻が私用にと置いているもので、表紙にもそのように書いてある。確か私も持っているはずなのだが、引越しの箱がまだ開ききっていない為、見つけることができていない。本の全文は、現在主に私の姉によって電子的なものとして再編し、公開しようと準備を進めているが(いつごろになるかは不明)、ここではそれから一つ一つ語を引用しながら、私の現在の考え、感想等を書いてみようと思う。ただ、なにぶん不勉強な為、見当違いのことを書くかもしれないが、それはそれで容赦いただいて、私のような回り道をしてきた一住職が祖父の言葉にどう反応するかをみて、面白がっていただければと思う。明らかにおかしいことを書いたら、そこはお叱りください。

 

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74歳ごろの爺ちゃん。まだ私は生まれていない。浄泉爺のモデルという説はある。

メモは以下のような文からはじまっている。

 

 八十五歳の年も暮れに迫って、振り返って見ると漠とした越し方だ。余命いくばくもなくなって、残命を濫費することが出来なくなった。日々の自分を記録してゆこう。誰に見せようと言うのでもない。後々に書きとどめて置こうと言うのでもない。記憶力の薄い自分、それでなくても老齢にて物忘れがはげしくなったので、書き誌して自分の生活の記録を更に辿って見ることにしようと思う。

 

 祖父は満88歳で亡くなっているが、この85歳は数え年だそうで、祖父が脳血栓で倒れる3年ほど前に書き始めたらしい。そう、祖父は最晩年は脳血栓で倒れ、その後寝たきりとなった。その期間、一年半だったらしいが、子供であった私にはえらく長く感じられた。祖父の往生は今でもよく覚えている。昼食の時間だった。祖父は奥の部屋で寝たきりになっていたが(幸い、最後は自宅だった)、祖母も含めて皆で食事をとり、食後祖母が奥の祖父を見に行った。まもなく祖母が帰ってきて、爺ちゃん死んどるわと言った。11歳の子供の私は、祖母があまりにあっさり死んでると言ったので少しびっくりした覚えがある。往生は8月。その年の夏に修学旅行か何かがあり、暑いので爺ちゃんに風鈴で涼しさを感じてもらおうと買って帰った後に亡くなった。その後、祖母が亡くなったときも同じように風鈴を買って帰った後に亡くなった為、私にとって風鈴は祖父・祖母の記憶とつながるアイテムとなった。

 

祖父はお経が上手だった。今、御門徒さんをめぐると、当時子供だった方々が結構なベテランになっておられるが、頭のはげた坊さんらしい坊さん(祖父のこと)が来て、綺麗な声でお経を読まれたことをよく覚えているとおっしゃる。中には、あのお経がもう一度聞きたい、録音は残っていないのか?とおっしゃる方もおられる。残念ながら録音は無いようだが、私も聞いてみたい。残念ながら私の記憶には祖父のお経の声は無い。

 

今から思えば、祖父も私とどう付き合って良いのかよくわからなかったのだろう。あまり多くを話した記憶がない。これまでの私の人生の中であれやこれや辛い思いをした時に、なぜか祖父との思い出が頭に浮かび、もっと話しておけば良かったと思う。祖父ならどう考えるのだろうかとか、叱られるだろうかとか。実際のところ、ほとんど祖父のことを知らないのだが。

 

さて、先の文を見直すと、

 

余命いくばくもなくなって、残命を濫費することが出来なくなった。

 

とある。体力の衰えを感じつつも、のこりわずかに感じられる命については無駄遣いはできない。これは人によって見え方が違うかもしれない。かなりの高齢になっても、まだこれからという意味合いにとる人もあるだろうし、むしろ悲壮感として捉えることもできるかもしれない。私の記憶にある爺ちゃんからすると、おそらく前者で、まだまだやりたいことがあるということなのだろうと思う。人にみせるものではないが、自分の考えを整理したいということだろうか。

 

ちなみに、先の表紙の絵は城守のもので、雅号を上山梅白といった。挿絵もあり、それらも載せていこう。

 

さて、次にある一文を今読んだが、これから何を書けるのか。ただただ不勉強なので、よくわからないので載せて終わり、、が多発しそうな気もするが、1周目(何周もするのか?)はそれで良いだろうと自分を慰める。ちなみに遺語は1300あるらしく、この本にも705ほどある。もしも可能なら、祖父の残した言葉に何か解説をつけてくれるとありがたいという、意味不明なブログとしてスタートしたいと思う。

 

ところで、爺ちゃんの写真。今見るとかっこいい。 腕に巻いてあるのは腕時計であろうか。私も目の色が薄く茶色だが、爺ちゃんは茶色よりさらに薄く青っぽかった記憶がある。ちょっと外国人風な雰囲気があった。当時子供だった私には、ハゲであるということがマイナス印象だったが、今見ると禿頭がとても似合っている。こんなに禿頭が似合う日本人も珍しいのではなかろうか。

 

南無阿弥陀仏