浄泉爺のブログ

浄泉爺の考え事を記録します(研究のこと、仏教のこと、教育のこと、ドローンとか)

臭いもの

私が死んだのちに、後の人よりこんな人であったと、悪いことでも善いことでもいわれることは私の臭みだ。人間はそんな臭いものを残そうとしている。

如是我聞ー上山城守遺語ーより

 

悪いことでも善いことでも臭いもの。

 

自分のことを考えると、死んだのちのことはまだあまり考えていないが、忘れられるのは寂しい気がする。ただ、死んだら消えたいという方もいる。城守的には後者か。

 

少し考えてみよう。自分が死んだら、後の人よりこんな人であったと、悪いことでも善いことでもいわれるのだろうか?

 

城守は人気があった。未だに伝説・レジェンドだ。今日もあるご門徒さんが、城守の話を出された。その方が若い頃、城守のお経がとても上手だったという強烈な記憶があるそうだ。そういう意味では、臭いものを残したのか。いや、そういうことではあるまい。

 

恐らく、生きている間の心構えのことを言っているのだろう。後に何かが残るか、残らないかはその人の問題では無い。後に残された人々の問題である。臭いものかどうかはわからないが、残る人もいれば、忘れ去られる人もいる。

 

ならば、残る人になりたいと思うのが通常だ。その考えを戒めているのだろう。

 

 

残る人になりたいという思いから多くの人に良いことをしようとか、残る人になりたいと思って色々書き残すとか。例えばこういうブログなんかもそうなんだろう。臭い臭い。つまり善い人でありたい、人々の記憶に残りたいという思いは、結局のところ煩悩なんだと気づかされる。

 

今回、除夜の鐘関係の話題に重なって、除夜タイマーツイートがバズった。多くの人がいいねしてくれるのは本当に嬉しい。自分に価値があるような気がする。自信が出てくる。ふと、もっともっと!と思う。ただ、そういう刺激が絶えず無いと自分を見つけられないようでは、なんともしんどい人生になるんだろう。生き方にはそれなりの工夫がいる。ヒントは仏法にあるのだろう。

 

城守はその意に反してかは定かでは無いが、多くの記憶を残した。もっと話をしてみたかった。

 

南無阿弥陀仏