人生を楽しむとは
人生を楽しんで通ろうとは思わない。幸か不幸か乗り物に酔うので遠い旅に行ってみようとも思わぬ。私はただこの油谷町の人草として、ここで生まれてここで死んでゆく。それで寂しいとも思わぬ。それで生くるよろこびを知らせてもらっている。ありがたい人生だったと思う。
如是我聞ー上山城守遺語ーより
どういう思いで人生を過ごすか。50を前にして、考えることがある。
できること、できないことがある。何でも思えばできるというのは嘘だ。そんなことは無い。どうやってもできないことがある。一方で、他の人がどうやってもできないことをさせてもらっていることもあるのだろう。それぞれ役割がある。
城守は実は学者になりたかったようだ。ただ、当時の寺の経済状況では難しかったらしい。城守の言葉、これはどういう気持ちで書いたのだろうかと思う。
本当は京都に出て、名のある学僧になりたかったのだろうか。その未練さと見るのか、それとも言葉通りにとるのか。これを読む人の状況によるのだろう。強がって書いているのか、そのままの境地なのか。きっと後者であろうが、今の自分には前者に思える。
個人的には、自分もこの文面の通りの境地で終わりを迎えたいと思うようになった。所詮、ただの一個人、ただの人である。それで良いじゃないか。人生は苦であるというが、城守の言葉にそういった雰囲気は無い。
何かこの文の中にヒントがあるように思う。