気取ったことをすまい
気取ったことをすまい、上手につくらうまい。しゃれる事がみにくいことだ。つくらわず飾らず、あるままに!
如是我聞ー上山城守遺語ーより
とてもイタイなぁ。心に刺さるというか、苦しいなぁ。
人というのには色々な魅力があるけれども、城守がいう「あるがままに!」が実践できている人は魅力的であろうと思う。城守はとても人気がある坊さんだったそうだ。門徒さんも、城守を知る人は皆、坊さんらしい坊さんだったという。きっと、あるままにいたのだろう。
僕は基本絶えず気取っている。他との比較の中で一喜一憂している。ただ、これが基本過ぎて他にどうしたらよいのか分からない。
10年近く前に、中学校の同窓会があった。通常なら参加しないのだが何故かそのときは参加した。何故参加しないかというと、色々あるが簡単に言えば他の人の成功を見たくないというか、自分の無力さを見たくないというのが強い。実際、そういう集まりに出るとほぼ確実に凹む。自分が情けなくなるし、他人が羨ましくなる。
以前母がこういうことを言っていた。かなり前の事だ。
男の人は大抵定年過ぎてから集まるようになるみたいよ。肩書きとか無くなってからじゃないと集まれない見たい。
妙に納得したというか、僕もそう思った。だから、先の中学校の同窓会の後も、次は70歳くらいになってからだろうかと思った。実際、その数年後にあった同窓会には参加しなかった。
僕は偏屈だ。小学校5年生の時に担任だった坊さんと兼務の先生は、僕のことを屁理屈坊主と呼んだ。実際そうだったし、嫌な気分はしなかった。それで良いと思っていた。
人はどうあるべきなのだろうか。城守の言葉は僕に何かを伝えているように思う。
恐らく、僕は魅力的な人間でもあるんだろう。ただそれを自分自身が封印している。
城守のいうように、「あるままに!」がその封印を解くヒントなんだろう。
ただ、それが難しいから今の自分があることも事実だ。
近々、先の同窓会とは違った意味での集まりがある。それも参加するかどうかはかなり悩んだ。何せ、今その方面で何もできていないのだから。参加する事にしたが、実は困っていた。城守の言葉をこう理解しよう。
いまのまま、そのままでよいのだと。
少し気が楽になった。