浄泉爺のブログ

浄泉爺の考え事を記録します(研究のこと、仏教のこと、教育のこと、ドローンとか)

道心

仏法の興隆は僧侶の道心による。参る人がすくなくなるなら僧侶の懈怠(けたい)への御意見と思わねばならぬ。

如是我聞ー上山城守遺語ーより

 

いくつか、私には難しい言葉があるので、まずはそれらから。(出展は macOS 標準の辞書アプリ(スーパー大辞林)より。)

 

どうしん だう― 0【道心】
① 是非を判断して,正しい道をふみおこなう心。道徳心。良心。
② 仏教を信じる心。出家者となって,修行に励む心。菩提心(ぼだいしん)。
③ 出家者。特に一三歳または一五歳で出家となった者。「今―」「青―」

 

かいたい 0【懈怠】
〔「けたい」とも〕
① 〘法〙訴訟行為など,一定期間内にしなければならないことを怠ること。「期日の―」「通知の―」民法上,「過失」と同義。
②  →けたい(懈怠)に同じ。

 

この二つの言葉を知ったことだけでも実り多い。

 

まずは前半の文を見て見よう。

 

仏法の興隆は僧侶の道心による。

 

そもそも僧侶に仏教を信じる心が無くては、仏法は栄えない。そのとおりだ。他の場所に書いたような気はするが、この辺りが科学と宗教の根本的な立場の違いだと思われる。仏教においては、釈迦が説いた事が正しいという前提で全ての論理が構築される。それが間違っているかもしれないという立場をとることに、殆ど意味が無い。ただ、釈迦が言ったことの解釈についてああだこうだということはあり得るだろうし、そういうところが学問として議論されるのだろうと想像している(これは想像で、本当のところ、怒られるかもしれないが、仏教学等の学問がどういう学問なのか、現状の私には今ひとつわかっていない。)一方、科学は前提条件を疑う事に躊躇はない。多くの場合、前提条件を真に受けていると、新たな発見できない。前提、仮定を疑う事が科学の発展に繋がった。

 

科学者にとっては、そもそも立ち位置が違うとすれば、それほど違和感なく宗教的思考を受け入れることができるのではないか。そこに、似た傾向を見いだし、科学と宗教が云々言い出すと怪しい雰囲気がでてくる。個人的にはとても嫌いな展開である。

 

一方、非科学者については、そもそもその背景にある仕組み、テクノロジーが実際には多少難解ではあるが理解可能であるにもかかわらず、多くの人はそれを前提として受け入れて、詳細を知ろうとしたり疑ったりはしない。ただ、利用に際して何らかの不具合があった場合には、その原因を探るよりも、短絡的に科学技術に対する疑いに転ずる傾向があるように思う。そういう意味では、一部の宗教が生み出す破滅的な状況をみて、他の全ての宗教に対しても、その違いを見ることはせず、ただ自動的に疑いを持ってしまっている人は多いのだろう。

 

こういったことから、科学者であると同時に宗教家でもありえるだろうと思う。ただ、その二つの立場は基本的に分離しているべきだ。科学に道徳心は無い為、もしも科学の使い方について何か考える事態が生じれば、宗教家としての立場が役立つことはあるだろうし、そうあるべきだろう。ただ、立場を混ぜるとろくな事にはならない。これは、科学をよく知らない宗教家についてもいえて、その道徳心(宗教=道徳では無い事は理解している)から、盲目的に科学を否定するのもよろしくない。知識が足りないのだ。単なる不安から一方的に科学を否定するなら、それは無知である。宗教家も謙虚であるべきで、そこは科学者との対話が必要であり、無知な部分は積極的に認めるべきであろう。これは、科学者が宗教に関して無知である場合にも同様だ。ただ、この方向の場合には、単に宗教には興味が無いということで済まそうとする場合が多く、その場合にも結局一方的な批判は無知からくるものであると承知すべきである。とかく、科学者や宗教家はその立場を他者に利用されがちなので注意が必要だ。

 

さて、後半の文について。

 

参る人がすくなくなるなら僧侶の懈怠(けたい)への御意見と思わねばならぬ。

 

これもおっしゃる通りだ。そういう意味では、今の若い僧侶達は色々と頑張っているではないか。イベントを考えたり、僧侶個人としての個性をアピールしたり。それも一つの方向性として、私は否定する気はない。むしろよくそこまで頑張れるものだと感心すらする。それは、恐らく、先の道心からの事だろう。もちろん、伝統的な寺の営みは大事にしていくべきだ。ただ、それに触れる機会が特に若い世代には決定的に少なくなっているため、上記の様な新たなチャレンジがなされている。それが、若い世代が仏教に興味を持つきっかけになればそれはそれで良いことだ。

 

社会構造が大きくかわった事もあって、そもそも地域毎、さらには寺毎に状況が大きく異なる。それをひとまとめにして、あれが良いこれが悪いといった事はそもそも言うことすら無理であろう。言う人があれば、単に良くわかっていないということだ。今は、日本の仏教界が、急激な社会変化に対して、各僧侶の突然変異(これが各個体の自発的なものであるところがとても良い)を様々試しながら、新しい方向、生き残れる方向を見つける時期なのだと考えるべきだろう。その中には、うまくいくもの、つぶされるもの、批判されるもの様々だろうが、困難な状況においては他に良い方法は無いに違いない。結局の所、淘汰されつつ進化するしか無いのだろう。

 

さて、仏教界については、まだ突然変異する個体が多くいることで比較的明るい展望をもっている。これは、すなわち道心があるから、何とかしたいという気持ちが強いからである。それが無いなら、そもそも僧侶なんてやめて、より自由度の高い活動に移れば良いのだから。

 

一方で田舎の現状については大変厳しい。上記の道心にあたるものが通常ない。田舎に生まれ、田舎を何とか町として継続させたいと本当に思うことができるか。そこが難しくなってきている。都会が良ければ、都会に移れば良いではないか。それを打ち消す信念がない。ぽつぽつと、田舎で突然変異個体はでるだろうが、爆発は難しい。そういう意味で、自然発生的な突然変異が田舎を救うには無理があると思う。これについては、幾つか考えがあり、いずれブログにも書いてみようとは思うが、少なくとも田舎については、個人任せの起業や活動というのには無理がある。組織的な設計が必要だと考えている。田舎では個の力に頼れる根拠がそもそも無くなっている。

 

関連して、次の様な記事を見つけた。これは、国家レベルの話だが、地方自治体レベルにおいてもヒントになる事が多くある。この方の著書である「企業家としての国家」も読まねばなるまい。

 

wired.jp

 

ということで、話が発散した。これくらいにしておこう。