出来なかったでよかった
今は眼もかすみ、頭もにぶく物を言うも鈍くなって、どう思っても自惚れもきかなくなって来て、ただ仏の仰せに願うて生きるのみだ。若い日にはいろいろと志すことが多かったが、皆達することが出来なかったでよかった。もしもその通りに達することがあったら、如来の仰せをおろそかにしたことだろう。
自らの限界を感じることがある。それも繰り返し感じる。
10代の頃にもそれはあった。どうやっても勝てない相手がある。それは、例えば徒競走であったり、遠投であったり。今から思えばどうでも良いことかもしれないが、当時は大事な事だった。また、勉学でもどうやっても勝てない相手があった。今から思えば恐らく努力の差であっただろう。相手より努力をしたにも関わらず勝てないということでは無いと、当時もわかっていたように思うが、どうにもならなかった。努力も含めての勝負である。勝ち負けでは無いとは言うが、結局の所、勝ち負けなのである。
各年代、いや絶えず同じような限界を感じ、そのまま年をとり、気が付けばそんなことは忘れている。今、まさにこの瞬間にもある種の限界を感じて生きていて、明後日くらいには違う限界に悩むのだろう。
私にとっては、それはライフワークであって、自分のダメさを絶えず自覚し、その中で自分がどのような方向を向くのが良いかを考えているのだと思う。自然にそのように思えているのか、無理にそうしているのかは実のところよく分からないし、どうでも良いように思う。
他の人がどうなのか、気にはなるが実際の所どうなのだろうか。こういう話は大抵嫌がられる。ネガティブに思われるのだろう。全くもってポジティブなのだが。
出来なかったでよかったという表現は面白い。過去形のネガティブを現在形のポジティブで受ける感じ。
仏教的だなと思う。