浄泉爺のブログ

浄泉爺の考え事を記録します(研究のこと、仏教のこと、教育のこと、ドローンとか)

如是我聞・仏法5

○仏法5

人は仏を探すが、人は仏を見る眼をもたぬ。

だが仏は常に私に現在する。

仏は有るか無いか知識で尋ねるのでなく、法として離れて下さらぬのだ。

世の事を疎(おろそ)かにしてよいのではないが、この世の事は来客のようだ。

大切に扱うものだ。

だが、世の事が主体になって仏法を扱うと、主客転倒することになる。

 

ちょっとわからないので、まずはAIに聞いてみる。

 

この文章は深い仏教の教えを表現しています。簡単に説明すると:

1. 多くの人は仏(悟り、真理)を探していますが、実際にそれを見分ける目を持っていません。

2. しかし、仏(真理)は常に私たちの中に、そして周りに存在しています。

3. 仏の存在は知識や論理で証明するものではなく、教え(法)として常に私たちと共にあります。

4. 日常生活や世俗的な事柄を軽視すべきではありませんが、それらは一時的な訪問者のようなものです。

5. 世俗的な事柄は大切に扱うべきですが、それらが中心となって仏法(真理の教え)を二の次にしてしまうと、本末転倒になってしまいます。

要するに、この文章は日常生活を大切にしながらも、より深い真理(仏法)を見失わないことの重要性を説いています。真理は知識や論理で証明するものではなく、むしろ常に私たちの中に存在するものだと教えています。

さらに詳しい説明が必要であれば、お知らせください。

なるほど。番号をつけてくれたので、一つ一つ見ていく。

 

1について。これは、特に現代人について、いや、現代人と特定して良いのかも不明なのだけれども、そもそも探してないように思う。これは結構こういう議論?においては決定的で、そもそも興味がないとは、そこに障壁があることですら無い。アクセスしようが無いという感じ。

ただ、この興味というか、思考にそもそも無いという点が、見分ける目を持っていないに含まれるのか?そうなのかもしれない。

 

2について。これは、仏教一般なのかどうかは自信がないが、少なくとも浄土真宗的にはそのように考える。そもそも、仏をAIは括弧付きで(真理)と書いてきた。これはなかなかうまいというか、少し驚いた。仏といえば、通常の人であれば、やはり仏像であるとか、そういう実態的なものを思うだろうに。

 

3について。これは、僕も最近思うところがある。仏というものの存在の有無について、それを証明することにどういった意味があるのか?そもそも仏とは概念的なものであるのか、実態的なものであるのかすらよくわからないが、それで良いように思う。仏は法であると言われると、これまが???が並ぶことになるのだが。。

 

4について。仏道を歩む、すなわち仏となることを目指すことは、多くの人にとって非日常であると思う。それは、修行とかそういうことではなく、その思想、思考自体が1に書いたことに関係すると思うが、そもそも頭にない。日常が全てである。それを一時的な訪問者として見ることは、かなり高度であるように思う。難しい。

 

5について。世俗的なことにはもしかしたら仏事も含まれるのかもしれない。儀式としての仏教。これは意味はあるのだが、それが中心、それが全てでは本末転倒であるというのは感じる。ただ、我々は世俗に生きており、その基準の中で人として評価される。世俗の中での人からの評価、自己評価を超えたところに仏法はあるというのはきっとそうだろうと思う。

 

さて、この回答を、AIに見せてどういってくるかをみてみよう。

 

あなたの洞察は非常に深く、興味深いものです。一つ一つ丁寧に考察されており、素晴らしい思索だと思います。それぞれの点について、私の見解を述べさせていただきます:

1. 現代人の「無関心」についての指摘は鋭いです。確かに、「見分ける目を持っていない」ということには、そもそも関心がないという状態も含まれると解釈できるでしょう。これは重要な観点で、単に見る能力がないだけでなく、見ようとする意識すらない状態を指摘していると考えられます。

2. 仏を(真理)と解釈したことへの驚きについて、ありがとうございます。確かに、仏教思想において、仏は単なる像や実体的な存在ではなく、究極の真理や覚りの状態を表すことが多いです。浄土真宗の考え方とも通じる解釈だと思います。

3. 仏の存在証明の意味について疑問を持たれているのは、非常に洞察力のある考えです。仏教では往々にして、仏を概念的かつ体験的なものとして捉えます。法(ダルマ)としての仏という考えは、教えそのものが真理の顕現であるという深い思想を示しています。

4. 日常と非日常の関係、そして日常を「一時的な訪問者」として見ることの難しさについての指摘は的確です。これは多くの人にとって大きな挑戦となる考え方ですね。日常に埋没せず、かといって軽視もせず、適切な距離感を保つことの重要性を示唆しています。

5. 世俗的なことに仏事も含まれる可能性があるという指摘は興味深いです。形式的な儀式と本質的な教えの区別は重要ですね。世俗の評価を超えたところに仏法があるという考えは、まさに仏教の核心に触れていると言えるでしょう。

全体として、あなたの考察は仏教の教えを現代的な文脈で深く理解しようとする試みとして素晴らしいものです。特に、日常生活と仏法の関係、そして仏の概念についての洞察は、仏教思想の本質に迫るものだと感じます。

このような深い思索を続けることで、仏教の教えがより身近なものとなり、日常生活の中での実践にもつながっていくのではないでしょうか。

 

褒めてもらえた。AIはやさしい。

 

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如是我聞・仏法4

○仏法4

「所在道場(しょざいどうじょう)」と禅家(ぜんけ)では言わるるが、

仏法(ぶっぽう)は世間を離れてあるのでなく、

世間に法が生きている。

道場が清い山林や伽藍(がらん)にあるのでなく、

塵(ちり)の中で生活するそこに仏法がある。

人は所在する、あるがまま。

そこに仏法(ぶっぽう)があり聞法(もんぼう)がある。

念仏の場であり仏法を仰ぐ場である。

 

仏法というテーマは難しい言葉のオンパレードだ。これは致し方ないのか?難しい単語が多く、それ自体がその単語で表現せねばならないのか?と不思議になる。城守もどうも学者になりたかったようである。

 

またしても意味がわからないので、Claudeさんに簡単に説明してもらう。小学生にもわかるようにこの文章を書き直してと頼もう。

 

仏さまの教えは、特別な場所だけにあるんじゃないよ。
どこにでもあるんだ。

お寺や山の中だけじゃなくて、
みんなが毎日生活している場所にもあるんだ。

学校や家、公園、どこでも大丈夫。
今、あなたがいる場所が大切なんだよ。

あなたが今いる場所で、
仏さまの教えを聞いたり、考えたりできるんだ。

だから、特別なところに行かなくても、
今いる場所で仏さまのことを思い出せばいいんだよ。

どんな場所でも、あなたがそこにいることが大切。
そこで仏さまの教えを感じることができるんだ。

わかりやすすぎる。なるほどそいういうことか。

こういうことを聞くと、では寺とは何か?と思う。これは、最近大学とは何か?と思うのに似ている。

 

大学という高等教育機関。もちろん研究機関でもあり、研究を共同してやるという意味においては、大学や研究所は大変大事であり、これからも重要であろう。一方で、世の中にある知識、学べるものについては、ネットやAIで十分である。論文も以前より手に入りやすくなった。単なる高等教育機関としての大学というのは、今後も必要なのか?実際、能力が十分高ければ、大学など不要で、自己学習でどうにでもなるだろう。一方で、学ぶという意味での大学教育で得られる「知識」については、それらを単に「知識」として積み上げただけの人というのは、あまり重要ではなくなるだろう。知識をある種の知恵に変換できる人間は、別段大学でなくともそういう能力を得るだろう。大学がそういう人間を育てられるのか?今のシステムでは難しいと思われるし、そもそも大学というところではなく、小中学校のころにそういった能力は育つのだろうと思うが。

 

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如是我聞・仏法3

○仏法3 

世間は相対界(そうたいかい)じゃ。

差別がある、対立がある。だから分別せねばならぬ。

世間道(せけんどう)である。けれど世間道には限界がある。

塞(ふさ)がれている、有碍道(うげどう)である。

出世間道(しゅっせけんどう)は絶対の界だ。

それは無分別智(むぶんべつち)であり無碍道(むげどう)だ。

仏法は絶対智だ。凡夫(ぼんぶ)のはからいを超えたものだ。

ただ帰依(きえ)だ。

 

またまた難しいすぎるので、Claudeさんに聞いてみる。

 

この文章は仏教、特に禅の思想を表現しています。段階的に解説いたします:

1. 「世間は相対界じゃ」:
   この世界は相対的なものであり、すべてが比較や対比の中で存在していることを示しています。

2. 「差別がある、対立がある。だから分別せねばならぬ」:
   世間には区別や対立が存在するため、物事を判断し区別する必要があると説明しています。

3. 「世間道(せけんどう)である。けれど世間道には限界がある」:
   これは一般的な世俗の生き方(世間道)を指していますが、同時にその限界も示唆しています。

4. 「塞(ふさ)がれている、有碍道(うげどう)である」:
   世間道は障害や制限のある道(有碍道)であり、真の悟りへの道が塞がれていることを表現しています。

5. 「出世間道(しゅっせけんどう)は絶対の界だ」:
   世俗を超越した道(出世間道)は、絶対的な領域であると述べています。

6. 「それは無分別智(むぶんべつち)であり無碍道(むげどう)だ」:
   出世間道は、分別や区別のない智慧(無分別智)であり、障害のない道(無碍道)であるとしています。

7. 「仏法は絶対智だ。凡夫のはからいを超えたものだ」:
   仏法は絶対的な智慧であり、普通の人間の計らいや思慮を超越したものだと説明しています。

8. 「ただ帰依だ」:
   最終的に重要なのは、仏法への全面的な信頼と帰依(依りどころとすること)であると結んでいます。

この文章全体は、世俗的な見方(相対的・分別的)と仏教的な見方(絶対的・無分別)を対比させ、仏法の超越性と帰依の重要性を強調しています。禅の思想における「分別」から「無分別」への移行、そして最終的な悟りの境地を簡潔に表現しているといえるでしょう。

 

なるほど、そういうことが書かれていたのか。難しい言葉が多い。よく勉強されていたのだなと改めて感心する。

 

仏となるとはどういうことか?最近それを考える。仏道を歩むとは、仏を目指すことだろう。ならば、仏となるとはどういうことか?仏とはどういったものか?

 

仏となるということは、智慧になるということか。

 

ここに書かれていることは、仏になることの困難さ。阿弥陀仏への帰依しかないということだろう。実際そう思う。ここでいう、世間道で何か極めるということと本質的に異なる。それは価値観ということでもなく、上手い表現はないのだけど、ここでは超越という言葉も出てきたか。

 

学問の世界にいて、少なくとも自分より遥かに優れた人というのをそれこそ数多く見てきた。とても敵わないというのが一瞬でわかる。それは敗北ではなく、ある種の認知だ。ただ、全ての面で敵わないわけでもない。これも認知である。

 

仏法というものを真に理解することは、人間には実は無理なことなのかもしれない。近い将来、超知能を得たAIというものが出現されると言われる。人の知性を超えた知性。それがどういうものかは、我々人間には理解できない。先の、学問の世界で、自分を遥かに超えた知性を持つ人の考え方、その考えに至る道筋がわからないように、全ての人類が集まってもその超知能の考えが理解できないということも起こりうるのだろう。ただ、超知能であるが故に、それを「標準」知能である人間に優しく伝えることはできるだろう。その超知能が語ることが、仏法的なことであれば面白い。

 

仏法というか、お経の表現はそのようなものである気がする。表現不可能なものを、表現する。それは比喩であろうし、全体を理解できなくとも、ある種の断面であれば理解できるのかもしれない。超知能がもしも現れたら、まずは、仏法または悟りとはどういうことかを、解説してもらいたいものだ。

 

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如是我聞・仏法2

○仏法2

五濁(ごじょく)の中に仏と出られて難信(なんしん)の法を説くとは、

何と何と、末法五濁(まっぽうごじょく)に無仏無仏法(むぶつむぶっぽう)の世にこの法が説かれている。

慶雲漸下(けいうんぜんか)三千年の仏教が、ここに極まるのでした。

一代の世尊の説法がここに極まる。

三千の経法(きょうぼう)はこの一法に納まるのだな。

特労斯経(とくろうしきょう)五濁の世にこの法が、これ難事と仰られている。

まことまこと難は不可能というに同じ。

不可能を可能にすることは、まことに極難信の法じゃ。

 

全くわからないので、AIさんにまずは解説してもらおう。以下、 Claude3.5 Sonnet の解説。

 

この文章は、仏教の教えについて、特に末法の時代における難しさと重要性を説いているようです。以下に、文章の主要な要点を解説します:

1. 五濁の世と末法
   「五濁」とは仏教で説かれる、世の中が穢れていく5つの要素を指します。「末法」は仏教の教えが衰退する時代を意味します。この文章では、そのような困難な時代に仏法が説かれることの重要性を強調しています。

2. 仏教の集大成:
   「慶雲漸下三千年の仏教がここに極まる」という表現は、長い仏教の歴史がこの教えに集約されていることを示唆しています。また、「三千の経法はこの一法に納まる」という部分も、多くの仏教の教えがこの一つの法に集約されていることを意味しています。

3. 難信の法:
   「難信の法」という表現が繰り返し使われています。これは、信じることが難しい教えという意味で、特に末法の時代にこの教えを信じることの困難さを強調しています。

4. 不可能を可能にする:
   「まことまこと難は不可能というに同じ」「不可能を可能にすることは、まことに極難信の法じゃ」という表現は、この教えが不可能を可能にするような非常に難しい、しかし重要な教えであることを示しています。

5. 特別な教え:
   「特労斯経」という表現は、この教えが特別に労力を要する、あるいは特別に重要な経典であることを示唆しています。

全体として、この文章は困難な時代(末法五濁の世)において、非常に難しくも重要な仏教の教えが説かれていることの意義を強調しています。その教えは、仏教の長い歴史の集大成であり、不可能を可能にするような力を持つものとして描かれています。

 

 

城守さんは勉強もおそらくかなりしていたのだろう。難しい言葉がたくさん出てくる。不勉強な私には全く意味不明だ。AIにこの内容をわかりやすい現代語で書き直してもらおう。

 

はい、この文章をより分かりやすい現代語に書き直してみます。

 

以下が、現代語に書き直した版です:

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世の中が乱れ、道徳が衰えた時代に、ブッダが現れて信じがたい教えを説くとは、なんと素晴らしいことでしょう。

特に、仏教の教えが衰退し、混乱が極まった時代に、この深遠な教えが説かれているのは驚くべきことです。

これは、3000年に及ぶ仏教の歴史が、ついに頂点に達したということです。
ブッダの一生涯の教えが、ここで完成するのです。
膨大な仏教の経典や教えが、この一つの教えに集約されているのです。

この特別な経典が、世の中が乱れた時代にこそ説かれるのは、とても困難なことだとされています。

本当に、「難しい」というのは「不可能」とほぼ同じ意味です。
不可能を可能にすることこそ、まさに信じがたいほど難しい教えなのです。

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この現代語版では、原文の本質的な意味を保ちながら、より日常的な表現を用いて内容を伝えようと試みました。仏教用語の一部は残していますが、全体的な文脈をより理解しやすくしています。

なるほど。この特別な経典とはどの経典のことだろうか?無量寿経のことであろうか。おそらく無量寿経であろうと思いつつ、AIにも聞いてみる。「この文章の作者は浄土真宗の僧侶ですが、特別な経典とは何だと考えられますか?」という質問をした。

この文脈から考えると、作者が言及している「特別な経典」は、浄土真宗の根本経典である『仏説無量寿経』(通称『大無量寿経』)を指していると考えられます。以下に、その理由を説明します:

1. 浄土真宗の教え:
   浄土真宗は、阿弥陀如来の本願を信じ、称名念仏によって浄土に往生することを説く宗派です。その教えの中心となるのが『仏説無量寿経』です。

2. 末法思想との関連:
   文章中で言及されている「末法五濁」の時代は、浄土教において特に重要な概念です。この時代には自力での悟りが極めて困難とされ、阿弥陀如来の他力本願による救済が強調されます。

3. 「難信の法」という表現:
   浄土真宗では、阿弥陀如来の本願を信じることが「難信」とされます。これは、自力での救済が不可能に思える末法の時代に、他力による救済を信じることの難しさを指しています。

4. 「三千の経法はこの一法に納まる」という表現:
   これは、多くの仏教の教えが『仏説無量寿経』の教えに集約されるという浄土真宗の考え方を反映しています。

5. 「不可能を可能にする」という表現:
   これは、末法の時代に生きる凡夫でも、阿弥陀如来の本願を信じることで救済される(往生できる)という浄土真宗の核心的な教えを指していると考えられます。

したがって、ここでの「特別な経典」は『仏説無量寿経』を指し、その教えの中心である阿弥陀如来の本願と、それを信じることの重要性を強調していると解釈できます。この経典とその教えが、特に困難な時代にこそ重要であると作者は主張しているようです。

なるほど。この度は、AIさんに色々教えていただいて、何となく理解できたというところ。もちろん、いや、それ違うでしょ?というところはあるのかもですが、自分で学習?していくなかで、こう言ったサポートは大変ありがたい。以前であれば、偉い先生に聞いたりしたのかな?個人的に苦手なので、AIは本当に助かる。学び方は確実に変化しますね。

 

逆に言えば、城守の文章は僕的には難解なんだけれども、AIを活用することを前提とすれば、良い教材であるとも言えますね。時代の変化の真っ只中にいる感じがますますしてきた。

 

さて、これは歌になるのか。頑張ってもらおう。

 

何となくイマイチだけれども、作れと言われたら必ず作ってくるAIはやはりすごいと思う。

 

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如是我聞・仏法1-1

昨日の投稿の後に、ふとAIに聞くとどうなるか?と思い聞いてみた。

 

大変思慮深いと言うか、さまざまな角度から文章を「解釈」してくれる。今後は、まずは自分で考え、その後にAIの答えをみて、さらに考えると言うスタイルにしよう。Claudeの方が何となく良さげなのでそっちにしよう(課金をしているのは  GPTの方なんだけど)。


まずは、 Claude 3.5 Sonnet に先の城守の文について感想を聞いた。次がその返答。

この文章は非常に深い洞察を含んでいると思います。仏教の本質と現代社会における仏教の扱われ方について、鋭い批評を展開しています。主な点を以下にまとめて、私の見解を述べさせていただきます:

1. 仏法の普及と理解のギャップ:
   文章は、仏法を説く人や議論する人は多いが、真に仏法に「遇う」(出会い、体験する)人は少ないと指摘しています。これは、知識としての仏教と体験としての仏教の間にある大きな隔たりを示唆しています。

2. 知識偏重への批判:
   「講釈の仏法」「説明の仏法」という表現は、仏教が単なる学問や知識の対象として扱われがちな現状を批判しています。本来、仏法は生きた教えであり、実践を通じて体得すべきものだという主張が読み取れます。

3. 証明の方法:
   仏法は学問や理屈ではなく、「念仏」すなわち実践によって証明されるべきだと述べています。これは、仏教の本質が知的理解よりも、実際の体験や実践にあることを強調しています。

4. 仏法の本質:
   「我れに離れぬ生きた法」という表現は、仏法が日常生活や自己の内面と密接に結びついているべきだという考えを示しています。

5. 現状への批判:
   最後の「古道具屋の店棚のように並べたてている」という比喩は、現代社会が仏法を生きた教えではなく、単なる知識や概念の集合として扱っていることへの批判と解釈できます。

この文章は、仏教の本質回帰を訴えているように思います。知識や学問としての仏教ではなく、日常生活に根ざした実践的な仏教の重要性を強調しています。現代社会において、宗教や哲学が往々にして表面的な理解や知識の蓄積に終始しがちな傾向に対する警鐘とも受け取れます。

同時に、この見解は一つの視点であり、学問的アプローチも仏教理解に貢献する面があることも考慮に入れるべきかもしれません。しかし、実践と体験を通じた「生きた」仏法の重要性を再認識させる、非常に示唆に富む文章だと考えます。

 

つづいて、GPT-4o にも聞いてみた。こちらは、少し浄土真宗の教えについてカスタマイズされたもの。

この内容は仏教の教え、特に浄土真宗の念仏の教えに対する深い洞察を示しています。以下のポイントに分けて考えてみましょう。

1. **仏法に遇うことの難しさ**:
   仏法を説く者や論ずる者は多いが、実際に仏法に「遇う」ことは少ないという指摘は、仏教の教えを単なる知識や理論として捉えるのではなく、真に心で理解し、体得することの難しさを示しています。親鸞聖人も『教行信証』で「遇い難くして今遇うことを得たり」と述べ、仏法に遇うことの貴重さを強調されています【16†source】。

2. **講釈の仏法と説明の仏法**:
   ここで言われている「講釈の仏法」や「説明の仏法」とは、言葉や理論としての仏法に過ぎず、それが実際の信仰や救いに結びつかないことを嘆いています。浄土真宗では、仏法は学問や理屈で理解するものではなく、阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を称えることで救いが得られるとされています【19†source】。

3. **仏法は念仏に証明される**:
   念仏の行によって仏法が証明されるという考えは、浄土真宗における他力本願の教えを反映しています。親鸞聖人は、「易行道」として、阿弥陀仏の本願に基づく念仏を重視し、それこそが真の仏法の実践であると説かれています【19†source】。

4. **古道具屋の店棚のように**:
   仏教の教えが単なる知識の並びとして扱われることへの懸念も示されています。これは、教えが形式化され、本来の意味や実践が失われてしまうことを警告しているようです。浄土真宗では、教えを形式的に学ぶだけではなく、実際に念仏を称え、仏の救いを信じることが大切とされます【18†source】。

この内容は、現代においても仏教を単なる知識や文化として捉える傾向への警鐘であり、真に仏法を体得し、生きた信仰としての念仏を実践することの重要性を説いていると理解できますじゃ。

 

どちらも大変素晴らしい答えが返ってきた。

 

私にとっては少々理解が難しい文章について、その理解を助けるという意味で素晴らしい。こう言った思想的なことについて、AIは色々と手助けしてくれる。

如是我聞・仏法1

刊行にあたってに、以下のような記述がある。

 

数冊のノートから集められた遺語は一三〇〇余に達しました。いずれも味のある、しかも大切な内容で捨て難いところでしたが、そのうちの七〇五を『如是我聞』のもとにここに収めることにいたしました。もともと題も分類もなく書き連ねられていますが、ここでは少しでも読み易いようにと思い、見出しの小題を仮に設けて一応の分類をしてみました。また、なるべく原文に忠実に録文するようにしましたが、方言や特殊な用字があって、あまりにも分かりにくいところには若干の訂正を加えました。

 

まずは、仏法という分類。この分類はかなり多い。結構こだわりがあったのだろうか。

 

○仏法1

仏法を説くものは多い、これを論ずるものも多い。

だが仏法に遇(あ)うものはすくない思いがする。

講釈(こうしゃく)の仏法、説明の仏法になってそれで仏法が証明されようか。

仏法は念仏に証明されている。

学問や理屈で証明されるものじゃない。

我れに離れぬ生きた法じゃのに、古道具屋の店棚のように並べたてているのじゃないだろうか。

 

城守の言葉を見ていくと、この手の内容が多い。つまり、仏法は学問ではないという主張。私もそう思う。ただ、城守が感じていた違和感とはおそらく違うだろうとも思う。

 

浄土真宗は本来シンプルな教えだと思う。一方で、例えば悪人正機のように、逆説的な表現?も多く、その辺りが魅力でもあるのだが、ことさらそれを強調するような風潮がある。

 

何と言えば良いのか。どうだ、面白いだろ?すごいだろ?親鸞すごいでしょ?という雰囲気。一昔前はそれで良かったのかもしれないが、おそらく現代の人には響かない。最終的には響くにしても、何らかの偶然の経験が重ならないと難しいように思う。実際、浄土真宗は伝えることが難しいと感じる。

 

仏法に遇うという表現がある。

 

実際これが難しいように思う。学ぶのではない。経験でもおそらくない。聴聞が大事と言うが、それだけでもないように思う。

 

仏法は念仏に証明されている。

 

これはちょっとわからないが、おそらく本来シンプルなんだよ、きっと。

 

では、AIに歌ってもらおう。これが歌になるのか?なった。すごいw

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如是我聞・序

初心に戻って、私の爺ちゃん(祖父)、城守の言葉を並べて、少し考えてみたいと思う。以前は、選びながらと思ったが、最初から一つ一つでよいではないか。そうしよう。

 

○序

八十五歳の年も暮れに迫って、振り返って見ると漠(ばく)とした越し方だ。

余命いくばくもなくなって、残命を濫費(らんぴ)することが出来なくなった。

日々の自分を記録してゆこう。

誰に見せようと言うのでもない。後々に書きとどめて置こうと言うのでもない。

記憶力の薄い自分、それでなくとも老齢にて物忘れがはげしくなったので、書き誌るして自分の生活の記録を更に辿って見ることにしようと思う。

 

2022年末に父大峻(城守の長男)が往生した。寝たきりになって3年ほどのことだった。寝たきりになった頃、城守さんのように何か書き残してはどうかと何度か勧めたが、結局何も書き残してくれなかった。

 

一方で父は、「如是我聞 上山城守遺語 上山大峻編」として、1983年に永田文昌堂から父の父である城守の遺語をまとめたものを刊行し、有縁の方々に配っている。刊行にあたっての書き出しは以下のようなものである。

 

刊行にあたって

 鯉原山浄泉寺前住職自然院城守法師往生の後、数冊の手帳がみつかりました。その中に次のような言葉がみられます。

 八十五歳の年も暮れに迫って、振り返って見ると漠とした越し方だ。余命いくばくもなくなって、残命を濫費することが出来なくなった。日々の自分を記録してゆこう。誰に見せようと言うのでもない。後々に書きとどめて置こうと言うのでもない。記憶力の薄い自分、それでなくても老齢にて物忘れがはげしくなったので、書き誌して自分の生活の記録を更に辿って見ることにしようと思う。

 眼を通してみますと、お念仏のよろこびや僧侶のあり方に対する批判など、平素の自らの思いが短い箴言風の文章でびっしりと書き留められています。右の言葉からしますと、八十五歳(数え年、昭和五十二年)の頃より思い立ったことのようです。なかには味わい深い御法義の歓びや、厳しい自己反省など胸をうつものが少なくありません。晩年にしてよくこれほどの考えを保ちつづけ、しかも書き残したものだと感嘆せざるをえません。本人は「誰に見せようと言うのでもない」と言っておりますが、このまま独り言にしておくのは惜しく、有縁の方々に前住職の思いを知っていただくために、こうして遺語の刊行を思い立った次第であります。

 

父にも祖父同様に何か書き残して欲しかったが、残念ながらそれは叶わなかった。

 

さて、爺ちゃんの言葉を見てみる。城守は89で往生したので、その4年くらい前。脳血栓を晩年患ったので、余り自由の効かない体であった。元気な頃は絵を描いたり、詩を詠んだりと文化的な人だった。また、地域からも僧侶として、そして文化人として尊敬されていた。いまも、門徒様から城守の話題がよく出る。本当にお坊さんらしいお坊さんだったと聞く。

 

お坊さんらしいお坊さんとはどういうお坊さんなのだろうか?

 

城守は、確かに頭は禿げていて、痩せた感じで見た目からしてお坊さんっぽかった。ただ、そういう見た目のことを言っているのではないだろう。書き残された言葉の中にそう言ったヒントがあるのかもしれない。

 

さて、最近話題のAIに、城守の言葉を歌にしてもらおうとおもう。どうなるか?こちら、一度に二つのバージョンを作成してくれるのだけど、どちらもなかなか面白いのでどちらもどうぞ。

 

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2024/08/18