仏教と仏法
仏教は頭に聞く、仏法は身に聞こえるものじゃ。
教が法になるには機がある。
如是我聞ー上山城守遺語ーより
仏教と仏法。なるほどそういうことかと少し分かった気がする。
仏教は以前は仏道といって、文字通り仏になる道であると聞いたことがある。一方で、仏法といわれると、いまいち??となる。Wikipedia によると、
仏法 (ふっぽう、ぶっぽう)
法 (仏教) - 仏に成る方法。法門の元。如来法(にょらいほう)ともいう。対義語は世間法(せけんぼう、略して世法-せほう)である。また政治を仏法の対照として見る場合は王法という。また、仏教そのものを指す場合もある。
これをみると、違いが無いようにも見え、どちらかと言えば、仏法は仏道に近い気もする。先の城守の言葉によれば、
仏教=学問的なイメージ
仏法=仏になる方法
と言ったニュアンスだろうか。仏教を仏教学と置き換えるとますますしっくりくる。学問としての仏教と、実践的な仏法。
伝道師の方々は正確に使い分けておられると思うし、私の上記の理解はおそらく間違っていると思う。これから聴聞していきたいところ。
ところで城守は学問的な仏教を嫌っていたようだ。城守自身、実は学僧になりたいと思っていたようだが、当時の経済状況が許さなかったようだ。ただ、田舎の寺の住職としてその人生を捧げ、大変魅力的な住職であったようだ。未だに城守のファンが多い。
仏教は頭に聞く。
仏法は身に聞こえる。
仏教は頭(理屈)で能動的に聞いていくもので、仏法は身にしみるように受動的に入ってくるもの。
教が法になるには機がある。
教を経て法となるのか?いや、何か他の意味があるようにも思える。なかなか深い。
今、様々なご門徒の先輩方とお話しをして、「身に聞こえる」を経験なさっておられるなぁと思うことが多い。
仏教の中に仏法があるのか、経験の中に仏法があるのか。仏教が仏法となるのか。
よくわからなくなってきている。ただ、これが正しいなんてものはないんじゃないか。それぞれの仏法、マイ仏法があるような気はしている。