浄泉爺のブログ

浄泉爺の考え事を記録します(研究のこと、仏教のこと、教育のこと、ドローンとか)

念仏の手でハンドルをとれ。 

この頃車には守り札がある。災難除けだ。向うから災難がある様に思うが、存外こっちにある。禍を招くと言うそれがわからんで、災難除けの守り札があっても駄目だ。だがそれなら数珠をかけていたらよかろうとて、念仏は呪【まじな】いじゃない。それは念仏じゃない。念仏の手で運転することじゃ! 念仏の手でハンドルをとれ。 

如是我聞ー上山城守遺語ーより

 

私が子供の頃には、自動車の前にミカン付きのしめ縄?をつける方が多かった。あれは流行だったのだろう。最近は殆ど見ない。思えば、それを大きな収入源にしていた方もいたのだろうな。

 

交通安全などのお守りを、自動車の中に吊り下げている方は今も見かける。新車を買うと、まず神社に行くという人もいるのだろう。ちなみに、私は今まで一度もそのような事はしたことがない。浄土真宗の寺の生まれなのであたりまえと言えばあたりまえだが。

 

以前、職場の同僚に、その方のばあちゃんが恐らく浄土真宗で、いつもぶつぶつ念仏言ってて気持ち悪かったと聞かされた。ああ、そういうものかと思ったけれども、つい40年前くらい、つまり私がまだ子供だった頃にお寺に来られるご老人は、息をするように南無阿弥陀仏とおっしゃっていた。正座すると南無阿弥陀仏。すれ違っても南無阿弥陀仏。どっこいしょで南無阿弥陀仏

 

最近も、お寺に来られる門徒様は南無阿弥陀仏と申される。ただ、40年前の雰囲気とは少し変わってしまった。先の、私の同僚のいう気持ち悪さがない。私の同僚がいう気持ち悪さは、恐らく本当に気持ち悪い、気味が悪いという意味だと思うが、私が言う気持ち悪さはそうでは無いつもり。今聞くお念仏は、どうも爽やかなかんじ。場所を選ぶし、息をするように出ている感じでは無いというか。それは、正直に言うが、僕もそうだ。息をするようには出てこない、残念ながら。

 

自動車を運転すると、もちろんハンドル操作をする。初心者のうちは、ハンドルを切るにも思考が必要だが、徐々に運転に慣れ、息をするように、つまり無意識にハンドルを切るようになる。運転という意味では、それはそれで危険な面もあるが、じいちゃんのいう念仏の手でハンドルは、念仏者としての生き方なのだろう。

 

息をするように湧き出てくる念仏が自らを導く。

 

その境地に至る日が私にくるのか。

 

興味深い所だ。

 

仏の手でハンドルをとれ。なかなかよい表現だと思う。

 

南無阿弥陀仏