どえらいこと
お念仏
只念仏して弥陀に助けられることは、やさしい道で易行門【いぎょうもん】と言わるる。だがそれが反【かえ】って不安である。難信である。奥深いものを探ろうとする。だが只念仏してと言うことは他力の至極の声である。衆生の涯【はて】にかかる願である。深海の底に会うのだ。理論の深さでなく人間の深さに、仏法の深さが即している。只念仏して……それはどえらいことだ。
如是我聞ー上山城主遺語ーより
最後、どえらいこととなっていてすこし面白い。
楽々使いこなせるが、実は仕組みがよくわからないことが多い世の中になっている。例えば、スマホ。メッセージアプリ(LINE等)で文字を打ち込むと、たちまち相手のスマホに表示される。距離は関係ない。地球の反対側でも一瞬だ。写真も届く。ビデオも届く。夢のテレビ電話はいつの間にか実現していた。
さて、楽々なんだけれどもその仕組みがわからない。何も考えなければなんということもないが、ちょっと気にし出すと不安がでてくる。私が打ち込んだメッセージはどうやって届いているのか?他の人のスマホに届くことはないのか?
不安は不安を呼び、まぁ考えても仕方ない、便利だからとなるのが通常だろうか。
ただ、これらは人が作ったもので、きちんと仕組みがあり、理解は可能だ。多少困難は伴うが、仕組み自体は誰でも理解可能だとおもう。細かな技術的な困難さは除いて。実は本当に基礎的な部分ほど謎が多いのだが、我々が日常的に利用する機器は、理解された理屈・仕組みの組み合わせでできている。
さて、念仏はどうか。
難しい。
「念仏で往生オッケー!南無阿弥陀仏!」
で良いのか?個人的には良いんじゃないか?と思っているのだが、いやそうではないとも聞く。確かに、先のスマホ関連の例で言えば、
「まぁ考えても仕方ない、便利だから」
と同じような思考停止であるからか。この辺りの考え方がいまいちよくわからない。きっと、一段理解が進むと、「どえらい」ことがわかるのか?いや、「どえらい」とわからなくても、救ってくださるのではないのか?・・・
こういう無限ループに至る。一方で城守はこうも言っている。
八十年聴聞【ちょうもん】したが、何を知ったことでも聞いたことでもなかった。無駄骨を折ったことだった。只南無阿弥陀仏!
如是我聞ー上山城主遺語ーより
当面無限ループは抜けられそうにないので、、