浄泉爺のブログ

浄泉爺の考え事を記録します(研究のこと、仏教のこと、教育のこと、ドローンとか)

何がオンラインで何がリアルなのかを考える

変なタイトルだ。

 

このコロナ禍において、オンライン授業やテレワークが盛んに行われた。

 

今、やはり前が良かったといった風潮が出てきて、以前のような形態に仕事や教育も戻りつつある。これはおそらく本能的なものだろう。ただ、そもそもその戻りたいという、以前の日常は、今回のコロナ禍での突然の変化に比べれば遅いだろうが、結構な速度で進んだ変化を含んでいる。その、戻りたいという以前の日常を今一度見つめ直すと、そもそもそちらがおかしいのではないかと思うのだ。それを少し書いてみようと思う。

 

仕事がリアルで、人間としてバーチャル

 

これまた変なサブタイトルであるが、このようになっていたのではないか?と思う。仕事が中心であって、人間関係も仕事が中心である。一方で、例えば田舎から都会に出て生活を営んでいる方々は、本来リアルに感じるべき田舎の両親などはバーチャル化していないか?

 

仕事をリアルに置いていた結果、仕事を辞めたとたんに交友関係があると思っていた人たちと疎遠になるというのを聞く。場合によっては鬱になるそうだ。リアルだと思っていた社会が、実は薄いつながりだった。我々がバーチャルに抱く印象そのものがリアルだと思った生活に現れる。

 

一方、バーチャルに放っておいた本来の人間としてのつながりはどうだろうか。気がついたときには、両親は歳をとり、やはりバーチャルな中で亡くなり、葬儀を終えて何を思うだろうか。

 

これは批判ではない。気がつかないうちに我々は生活の中で仕事をリアルの中心と思い込み、本来の人間としての営みをバーチャル的に扱っている。そして、これが現代的で仕方ないことだと思い込んでいる。そして、コロナ禍において多少本来的になれるチャンスがあるにもかかわらず、つまり人間的な営みをリアルに置いて、仕事をバーチャルなものとして捉える姿勢がすぐそこに見えてきているのに、以前に戻りたいと思う。

 

こういった社会はどうだろうか?

実現は難しいかもしれないが、目指しても良いではないか。例えば、田舎住まいでオンラインで仕事。田舎の自然の中で子供たちは創造性を営む。オンラインで仕事であれば、日本である必要もないかもしれない。日本から海外の会社に勤めていても良いだろう。日本の会社の社員が、ほとんどオンラインで海外から出社でも良いではないか。そんな、バーチャルな会社なんてと思うだろうが、それぞれの個人はリアルな生活をそれぞれの拠点に持てるではないか。その方が重要で、生産性もむしろ上がるだろう。次世代の人材も育つんじゃないか。

 

そもそも、今の世代がオンラインに馴染めないのは、オンライン世代ではないからであろう。次世代がオンラインネイティブ世代と呼ばれるかは知らないが、そういう世代にとっては社会の見え方は、ここに書いたようなことになるかもしれないし、そちらが自然と捉えられるのかもしれない。今我々の世代の常識で考えるべきではなく、社会も絶えず変化している。

 

これまでの数十年は、おそらく技術的な未熟さに対して人間が合わせてきた時代だ。今、技術的な障壁はかなり減ったし、人それぞれの能力もかなり高まっているだろう。だからこそ、一気に本来あるべき姿、本来あるべき社会に移行すべきだ。

 

都会こそ素晴らしいという時代は終わるべきだ。今こそ田舎生活にリアルな人間性を求めるべきだ。ただ、今の田舎にそれがあるかというと、ミニ都会を目指した田舎だらけのようにもみえる。

 

今、住みたい田舎に必要なのは、

  • 高速なネット環境
  • 田舎ならではの特徴的な教育
  • 安心できる医療
  • 老後を支えるコミュニティー

だろう。特に教育と医療は大事である。医療は、それぞれの個人病院で競争するような時代はもう来ない。協力して、地域の医療体制を作ることを目指すべきだ。自分達で町を作るというムーブメントが必要だろう。教育も同様。そして老後のケアも。

 

最近この手のことをよく考える。歳を取ったのだろう。

 

書いてみるとつまらない内容に見えるしまとまりもない。また、あらためて書いてみよう。どうも違うし、それほど単純なことではないことはわかっている。