浄泉爺のブログ

浄泉爺の考え事を記録します(研究のこと、仏教のこと、教育のこと、ドローンとか)

よく聞いて、しっかりする身になろうとするのが危ない。

よく聞いて、しっかりする身になろうとするのが危ない。

如是我聞ー上山城守遺語ーより

 

短いのでそのままタイトルにした。

 

このような言い方は真宗法話ではよく聞く。もちろん言い方は色々で、例えば善い人になろうという気持ちの裏には善く見られたいという煩悩があるとか、まさにその通りである。

 

この先、私の個人的な考え方で、真宗の正しい教えではおそらくない。近くの立派な真宗のお坊さんに正しい教えは聞いてください。

 

しっかりした身とはどういうことだろうか。本願寺では3年前に代替わりがあり、現門主が代を引き継ぐ時に、「念仏者の生き方」をご親教で示された。ご親教とは、門主のみが語ることのできるご法話のことだそうだ。言葉がなかなか難しい。

 

さて、その中で、「仏様の真似事(まねごと)」という言葉がある。

 

かつて、真宗では、先の城守の言葉にあるように、善い人になろうという事があまり良い事として捉えられなかった。それは、今のまま、悪人のまま救われるという阿弥陀様の願いにかなわないという事でもあるのだろう。子どもの頃に、次の様な事を友達と話したことを覚えている。

 

本当に善い人というのは、我々の目に触れることはないのだろう。なぜなら、本当に善い人というのはそのことを他の人に自慢したり伝えたりしないだろうから。そういう人に出会ったなら、きっとそれは偽物だ。

 

恐らく、子供ながらに説教を聞く機会が多かったので、その断片からこんなことを考えたのだと思う。ただ、今でもそうじゃないかとは思う。

 

一方で、今は善いことをする事を声高らかに宣伝する時代だ。多くの人がボランティアに行き、困っている人を見ると助けずにはいられないという。その経緯がどうであれ、素晴らしい人が多くいてなんとも心強いと思う。こういった「善意の心」を、それは煩悩だと一喝するのは難しい時代であるし、そぐわないのだろう。「善いことをしたい」という志の裏に、煩悩があること、それに気が付くことは大事な事であると思うが、だからといってそれをとがめることもあるまい。そのあたり、先のご親教を見ると、微妙な言い回しと「仏様の真似事」という言葉でうまく表現されている。

 

ここからはさらに個人的な考えになる。以前、次の様な歌詞をみた。詳細は覚えていないが、大体次の様なものだった。

 

世の中偽善者が多いが、皆が偽善者になれば結果として世の中は良くなるんじゃないか

 

そのような気もする。が、実際の所どうだろうか。世の中は今その方向で進んでいるように思う。多くの人が何か良いことをせねばと思っている。一方で、良いことをしない、できない人は評価がさがるような事態もあるようだ。ボランティアが義務になるようなら、それは既にボランティアではない。

 

ここで、城守の言葉にもう一度戻る。

 

よく聞いて、しっかりする身になろうとするのが危ない。

 

そのような今の世の中の方向性を危ないと言っているような気がする。皆がするからそうする。それでよいのか。皆が良い人になれば、警察はいらないが実現できると本気で信じているのか。人は所詮人である事は忘れてはならない。仏教はある意味人という存在の限界を明らかにしているように思う。例えばいま釈迦がこの世の中に現れ、SNSを駆使して布教したら世の中は良くなるのか。考えるのは楽しいが、そういった考えは、過去に多くの悲惨な戦争の根底にある考え方に近いとも言える。

 

自分を見返すと、どうなんだろうか。それこそ、何か忘れていないか?私の行動原理は、「仏様の真似事」ではなく、城守のいう「よく聞いて、しっかりするみになろうとする」姿なのであろうと、身にしみて感じる。

 

「仏様の真似事」という、キャッチーなキーワード。これは結構難しい事を言っていて、そういう意味では、これまでの真宗の考え方から何も変わらないと感じる。ただ、表向きの雰囲気でこの言葉を捉えるのは、もしかすると城守のいう「危ない」になるのかもしれない。世間に受け入れてもらいやすい方向に向かうことは良い事であると思うが、危険を伴っている事を再認識した。

 

実は布教の難易度がかなり上がっているように思う。というか、自分のような素人でもキャッチーに布教もどきができてしまう危険性があって、よほどの注意が必要じゃないかと思うが考え過ぎか。今日も、「仏様の真似事」という言葉を出して少しお話をしてしまった。浅はかだったかもしれない。