浄泉爺のブログ

浄泉爺の考え事を記録します(研究のこと、仏教のこと、教育のこと、ドローンとか)

宗教について考えた事

お寺に生まれつつも、あまり宗教心無く生きてきたので、お寺に戻るときには結構不安だった。お寺に戻り、約2年が経過したが、昨晩ふと宗教の必要性ということが頭に浮かんだ。何を考えたのかを記録しておく。

 

そもそも、何故宗教は必要か。ひとまず、一般的に宗教としておく。所謂、仏教とかキリスト教とかイスラム教とか。

 

何らかの事件があって、地球上に私1人だけが生き残り、何故か食料等は今後百年は問題なくあるという状況にあるとする。その時に、生きる気力がわくか?

 

恐らく、生きる気力は無く、きっと自死を考えるのでは無いか。

 

さて、ここで上記の極端な状況では無くとも、そもそも人というのは孤独なのでは無いかと考える。実際、家族、友人、知り合い等が居るが、それらも決して絶対的な存在ではない。先立たれるかもしれないし、何らかの原因で音信不通になるかもしれない。通常はそんなことは考えないが、ふとそういうコトに気が付いてしまう瞬間が来たとき、実は先の極端な状況と同じ状況とほぼ同等であることに気が付いてしまうのでは無いか。

 

我々はそもそも孤独である。そして、孤独であるとき、我々は生きる気力を失う。

 

そうではない人も居るのかもしれない。しかし、私の場合、少なくとも先の極端な例に置かれると、その後何十年も孤独に生き続けられる自信が無い。

 

そうなると、何か変わらない存在というのが必要になる。それが、宗教であって、例えば仏であったり神であったり。

 

これらのことは、恐らくどこかで見聞きしたことだろうと思うが、何となく自分なりに納得した。そもそも、人は孤独であるというのは重要で、実際自分の意識下でしが物事を感じ取ることができず、他の人の感じ方など知るよしもない。

 

孤独というのは何となく不安であるが、皆がそうであることをまずは理解せねばならない。本質的に孤独でないという人はいない。それに気が付かずに何となく生きていると、有るとき突然にそれに気が付いてしまう。それはとても危険だ。

 

私はおそらくは知的生物が生じた場合には、必ず宗教観を持つのだろうと思う。それらも本質的には孤独であって、何故存在し続ける必要があるのかという根源的な問いが生じるからだ。

 

それは、恐らく今後発展し、最終的には現れるであろう人を超える自己意識を持った人工知能も同様であろう。人工知能が頼りにすべき宗教というのを考えておくことは面白い視点ではなかろうか。