浄泉爺のブログ

浄泉爺の考え事を記録します(研究のこと、仏教のこと、教育のこと、ドローンとか)

どういう能力が欠けてきているのか?

今年度小学校のプログラミング教育の必須化という事があったはずだ。

 

www.mext.go.jp

 

コロナ禍であまり話題として聞かないが、結局の所プログラミングが上手になれば良いという雰囲気になってしまっているのではないかと思っている。ただ、上記の文部科学省の狙いはそうでは無いと明記されていて、それは本当に大事な部分だと実感している。何故かと言えば、現状の大学生を見ていると、自ら考える、自らを成長させるという能力が著しく下がっているように見えるからだ。

 

上記のHPの内容をみるとプログラミング的思考という言葉がでてくる。ただ、版を重ねるにつれて結構目的がブレているような気がしている。きちんとフォローしていないので記憶違いかも知れないが、以前はもっとプログラミング的思考の部分を強調していたように思うが、最新版は結構プログラミング自体を強調しているように見える。実際、その方が簡単だからかも知れない。ただ、それではプログラミング教室になって終わってしまうだろう。

 

近年の大学生を見ていて思うのは、ある種の能力が欠けているという事である。うまく説明できなかったが、昨日たまたま良い例を見つけた。少し話が飛ぶように思うかも知れないが、料理を考えて欲しい。

 

多くの人は、料理のレシピが与えられれば、ある程度の料理を完成させる事ができる。一方で、材料だけが与えられたときに、その材料を活かしたレシピを作り出せるかと言えば、それを作る事ができる人はかなり少ないと思われる。多くの人の作ったレシピに従って料理することで色々なセオリーがわかってくる。結果として、自分でレシピが作れるようになるわけだろうが、そこには結構大きな壁がある。

 

プログラミングを教えていてもその壁があまりに高く、多くがそれを超えられない。様々な例題をこなしていくことは、大抵の人はできるのだが、その後自分でオリジナルなプログラムを作成せよとなったとたん全くできない事に気が付く。

 

人が作成したものをなぞる事だけで作成者になるというのには、結構な能力が必要なのだ。

 

その、自分で作成する能力、創造力ともいうのかも知れないが、それが子供の時代に育たないというのが大きな問題なのだろうと思っている。その理由は、子供の頃に経験する遊びも、そのようなレシピなぞりのみになっているからではないか。

 

ロボットをプログラミングを使って制御する等、一見とても高度だが、全ての手順にレシピが用意されていて、それに従うとロボットが動くわけで、そこでやった感が生まれてしまう。そこに創造性が必要かといわれれば、あまり必要では無く、以下にレシピ通りに製作するかという技能となる。もちろん、そこに好奇心や想像性があれば、レシピには無い発展的な制作物を創り上げるだろうが、そういった能力をそもそももっているかというと、それがない。

 

どういう体験が必要なのか。

 

昔の子供を考えてみる。昔は良かった論ではないが、ある意味それはある。

 

ゲーム機など無い時代、広場に子供が数人いて、さあ何して遊ぶ?という問題があった。そこで適当な遊びを考え、面白い事もあるし、つまらない事もある。ただ、それらの遊びは創造されたものであって、創造する能力無くしては遊ぶこともできなかった。そもそも遊びというのは、そういう能力を作るモノだろうとおもうのだが、今の子供の遊びは、道具なりゲームなり、あまりに良く準備されていて、それ自身の面白さはあるが、創造性を発揮する機会があまりないように思う。それは田舎においてもあまりかわらず、野山があるからそれらを活かした遊びを子供が積極的にするかといえばそうでも無いだろう。ゲームがあればゲームをしてします。その方が安易に楽しいから。楽しい事を創造するのは実際難しい。

 

最初の、プログラミング教育については、そのようなレシピを創り上げる能力を伸ばす事に繋がればと注目しているのだが、どうしてもお勉強モードになってしまうだろうなと思う。

 

色々と考えるが、結局野山で勝手に遊ぶというのが一番かも知れないと思いつつ、そんなの今更非現実的とも思える。多分、子供はそのようなところに放り出されると、きっと勝手に創造的になるし、遊ぶだろう。ただ、大人がそうさせることが難しい。

 

先日、海外のIT長者が、自分の子供にはスマホ等は持たせず、田舎に住まわせ野山を駆け巡るような教育を受けさせているといった内容をみた。自分自身はIT系で儲けているわけだが、そういった事は自分の子供が大人になるときには過去のテクノロジーになっているわけで、その時代の新しい価値観を作る事ができなければダメだということだった。全くそうだと思う。

 

実際、時代を変化させるような人間というのはそれほど人数は必要ないのかも知れない。確実に物事を処理できる人材が少なくともこれまでは多く必要だった。一方で、AI等の進化は、そのような業種を一掃する可能性もあり、そうなるとこれまでの多数派が一気に失職となるかのうせいはある。

 

教育は提供側の問題と考えがちだが、基本的には受ける側がどのように教育を活かすかという視点が大事である。そこを取り間違えている人が多すぎることがそもそも問題で、いかに工夫した教育方法を考えたとしても、それを当人が活かさなければ何の意味も無い。その部分の教育がまず必要なのだろう・・。