浄泉爺のブログ

浄泉爺の考え事を記録します(研究のこと、仏教のこと、教育のこと、ドローンとか)

頭の使いどころ

今年の4月から寺の住職と理系研究者という二つの立場を持っていて、その中で特に頭の使い方について色々気が付いた事があるのでまとめておこう。できれば、脳科学者に調べて欲しいと思うが、脳科学者に親しい知り合いはいない。

 

まず、前提として、おおよそ30年の間、理系の世界にいた。20年間は理系研究者という立場であった。そこに、この4月から寺の住職という立場が重なった。そのとき、私の脳にどういった変化があったか、それがテーマだ。4月から現在(年末)までの9ヶ月間の、特に頭の様子について振り返ってみたい。

 

4月から9月頃まで

私は寺の生まれである。しかも長男。だが残念ながら、この4月まであまりお寺のことには関わってこなかった。高校2年生から理系クラスに行き、大学も理工学部に行った。その後、理学系を進み、現在は工学部に在籍しているが、基本的には理学的な人間である。

 

4月から、まず困ったのは読経。お経を声を出して読む必要がある。これについては、ある程度子供の頃から経験はあった。しかしながら、お経は全く覚えていなかったため、読み間違える危険性があった。お経を見たことが無い方もあるかもしれないが、次の様に漢字の羅列にふりがながふってある。

 

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仏説阿弥陀経

 

特に仏説阿弥陀経はある程度スピードを上げて読むため、目でひらがなを認識し(実は、ひらがなだけでは無く、対応する漢字も同時に脳は見ていることが後からわかった。どういうことかというと、漢字とふりがながこの写真の本ではきちんと対応しているが、それがずれているものがあって、それだと全くうまく読めない。そこで、意識していると漢字も同時に見ていて、ひらがなとの対応で正しく声を出している事がわかった。)、それを声に出すという動作を高速に行う。これは、結構難しい。実際、読経中はほぼ無我の境地になる。瞑想状態とでもいうか。何か他のことを考えるとその瞬間に失敗する。大変な集中力が必要だった。そのような読経であるから、読経後の脳の疲れ方はそれ以前に無いものだった。これまでの、理系研究者としての生活の中で、そういった脳の使い方はしない。プログラミングをしたり、数式を解いたり、研究発表・議論をしたり、論文を読んだりはするが、殆ど意味の無いひらがなの羅列(もちろんお経としては意味があるのだが、漢文の音読みの音の羅列には殆ど意味も無いし、音の繋がりも自然では無い)を高速で読み取り、それを発声することなどしたことがない。つまり、脳にとっては初体験であって、さぞかし脳は疲れたであろう。

 

同時に、先に述べたとおり、ほぼ瞑想状態に近いと思われる状態で読経するため、疲れと同時に読経後にはとても爽やかな脳の状態となる経験をした。これは実体験としてあったので、当時は門徒さんの方々に「読経で頭すっきり」というのをよく話をしていた。あまり読経したことの無い人が、仏説阿弥陀経を高速で間違えないよう注意しながら読経する時の脳の活動状況を調べると面白いと思う。恐らく、想像だが、瞑想状態に近いと思われる。(もちろん、視覚野や発声に関わる部分の活動は活発だろうが。)

 

それから、この時期、門徒さんとの会話での脳の使い方もそれまでと違った。大学教員をしていたので、もちろん人とは話す。学生さんと話したり、同僚と話したり。しかし、話の内容は大抵研究に関することか、内輪の狭い雑談系の話が多い。興味も、まぁ色々あるが、粗く言えば(今から思えば)近い内容が多く、それほどバラエティーが豊富というわけでも無い。もちろん、お酒を飲みつつ話すこともあり、そういうときにはくだらない話も多くするが、それでもそんなにビックリするような話題にはめったに巡り会わない。SNS等で知り合った方との会話はそういう意味では普段とは違って面白い。今から思えば、SNSがそれなりに楽しいと感じるのはそういうことかと思わなくも無い。一方で、門徒さんとの会話は本当に色々だ。人生色々、ビックリするような話が多い。しかも、浄泉寺の門徒さんという、地理的には近い方々なのだが、その生き様なり人生経験なり波瀾万丈なお話を聞く。ただ、この頃は、ある意味人生経験が狭かった事もあって、話に圧倒され、うまくお話を聞けているような気がしなかった。また、そういう緊張感もあって、夕方以降の疲労感がとにかく経験したことの無いような頭の疲れ方だった。

 

それから、寺の業務。これは果てしなく煩雑である。これまで、研究者としての生活では、殆どがメール等の電子的な通信が多い。また、書類もある程度決まったものであって、要領を心得ていた。しかし、寺の業務というと、郵送での連絡、FAXでの連絡、また、どうして欲しいのかもわからない張り紙広告。よく分からない集まり等。あまり細かく書くと当たり障りもあるので、詳しくは書けないが、個人的には発狂寸前の煩雑さだ。旧来からのやり方がそのまま続いているのだろう。慣れれば恐らくたいした事ないのだろうが、当初は思考停止状態となった。これは脳的には単にストレスとしか感じられなかった。ただ、この疲労感も相当のものであった。

 

さて、時はたって10月頃から。色々となれてきた。

煩雑な寺の業務は実は春先に集中していることがわかった。次の春先は今年よりは慣れているだろうが、やはり発狂するだろう。何とか効率化していきたいものだ。

 

読経については、脳が完全になれてしまった。お経も完全に記憶しているわけでは無いが、眼がひらがなを認識して声に出す動作はバックグラウンドプロセス化した。つまり、読経中に他のことを考える事が可能になった。というか、他のことが頭に沢山よぎるようになった。これはあまり良くない。せっかくの瞑想状態であったのに、何とか集中状態に戻そうと努力するが、他のことが頻繁に頭に浮かぶ。読経は間違えないが、個人的には本当にがっかりな状態である。怒られるかもしれないが、記憶したお経は頭にはあるが、心には無い感じだ。覚えない方が良いと個人的には思うのだが、頭は勝手に覚えてしまう。読み慣れないお経がまだあるので、それをたまに読むことにしようかと真剣に考えている。または、正直に瞑想技術の習得を目指すか。あの頭のすっきり感は、その後の研究にしても、その他の考え事についてもとても良い影響があった。とにかく頭は絶えず色々な考えを浮かばせてくる。邪魔なのだがどうにもならない。それをコントロールする手段が瞑想だろうが、その経験は不慣れな読経でも可能だというのが私の経験だ。(ただ、本当の瞑想を知っているわけではないので、想像である。)

 

続いて、門徒さんとの会話。これも慣れてきた。こちらはどちらかというとポジティブで、人とのコミュニケーション能力がかなり高まってきたように思う。理系にいると、人とのコミュニケーションにはあまり興味が無い状態でも案外普通にやっていける。少し変人である方が良いくらいだ。個人的には、一生変人ではいたいと思っているが、人とのコミュニケーションで問題が生じるのはやはりストレスになる。ここ最近は、確実にコミュニケーションスキルは向上してきていて、今後もしばらく向上し続けるだろうと想像している。これは良いことだ。

 

で、現在の脳の状態を少し冷静に考える。

 

どうも、理系研究者として使ってきた部分と、寺の住職として使う脳の部分はかなり分離しているようだ。脳の疲れ方が違う。(脳の疲れる場所が違うといいたいところだが、それはさすがにわからない。)一方で、相互に影響は与えているようだ。理系研究者としての興味の対象が以前よりかなり広がったように思う。一つの問題に対する視点も前より自由度が高くなったような気がする。これらは大変ポジティブだ。年齢も重ねてきているので、馬力のいる仕事はなかなか難しい。しかしながら、アイデアの創出的な事については経験がものを言う。そういう意味では大変良い影響を受けている気がする。ただ、先のように、不慣れからくる疲れが大きく、なかなか思うように研究ができていないが、慣れてくるともしかすると面白い事ができるのかもしれない。

 

寺の住職業に対して、理系脳はどう反応しているか。これは結構微妙である。やはり、科学的思考と宗教的思考(場合によっては哲学的思考)には、似た構造を持ちつつも前提条件の扱いが異なり、前提条件に対する疑いこそが新たな発見に繋がってきた科学的思考と、前提条件を無条件に認めないと話がはじまらない宗教的思考の差は大きい。特に宗教的な思考では、これは仕方がないことなのだが、一見論理的に見えて大きな論理的な飛躍がある事が多々あり、どうしても説得力を持たせたいが為の細工に見えてしまう。そういうこともあって、基本、それぞれの思考を分離しないと大きなストレスとなるが、現状私にはそれらは異なるものとして分離ができているように思う。むしろ、宗教的思考にどっぷりな方より、すっきりと受け入れられているかもしれない。この辺りは、自分の捉え方についても大きく変化してくるような気はするが、分離しておく方が良いという直観はある。分離は拒絶では無く、同居である。入口が二つある二世帯住宅のような。これで良いように今は思っている。

 

さて、雑多に書いてみたが、同時にかなり方向性の違う頭の使い方をしている状態を経験していて、客観的に見て大変面白い。当人としてはとても疲労感はあるが。違うブログで書こうとは思っているが、これからの100年人生において、マルチキャリアを語るとき、私の経験していることは結構重要な意味を持つだろう。似たような職を渡り歩くのか、全く方向性の違うものに移っていくのか。どういった研究分野になるのかは知らないが、ある程度科学的に研究しておかないと、多くの人が挫折を繰り返すだけになるのではないか。そういう私も、今でこそ結構安定してきたが、当初は発狂しそうな日が多くあった。これからもまだ自分なりに工夫しないとおかしなことになりそうな気はしているし、結構不安定な精神状態も無いわけではない。よくよく、自身の精神および脳の状態を気にかけつつ、1+1=2ではなく、1+1=3とか4とか100になるような、それこを私の専門である非線形数理で語れるような人生にしたいものだ。