浄泉爺のブログ

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如是我聞・仏法3

○仏法3 

世間は相対界(そうたいかい)じゃ。

差別がある、対立がある。だから分別せねばならぬ。

世間道(せけんどう)である。けれど世間道には限界がある。

塞(ふさ)がれている、有碍道(うげどう)である。

出世間道(しゅっせけんどう)は絶対の界だ。

それは無分別智(むぶんべつち)であり無碍道(むげどう)だ。

仏法は絶対智だ。凡夫(ぼんぶ)のはからいを超えたものだ。

ただ帰依(きえ)だ。

 

またまた難しいすぎるので、Claudeさんに聞いてみる。

 

この文章は仏教、特に禅の思想を表現しています。段階的に解説いたします:

1. 「世間は相対界じゃ」:
   この世界は相対的なものであり、すべてが比較や対比の中で存在していることを示しています。

2. 「差別がある、対立がある。だから分別せねばならぬ」:
   世間には区別や対立が存在するため、物事を判断し区別する必要があると説明しています。

3. 「世間道(せけんどう)である。けれど世間道には限界がある」:
   これは一般的な世俗の生き方(世間道)を指していますが、同時にその限界も示唆しています。

4. 「塞(ふさ)がれている、有碍道(うげどう)である」:
   世間道は障害や制限のある道(有碍道)であり、真の悟りへの道が塞がれていることを表現しています。

5. 「出世間道(しゅっせけんどう)は絶対の界だ」:
   世俗を超越した道(出世間道)は、絶対的な領域であると述べています。

6. 「それは無分別智(むぶんべつち)であり無碍道(むげどう)だ」:
   出世間道は、分別や区別のない智慧(無分別智)であり、障害のない道(無碍道)であるとしています。

7. 「仏法は絶対智だ。凡夫のはからいを超えたものだ」:
   仏法は絶対的な智慧であり、普通の人間の計らいや思慮を超越したものだと説明しています。

8. 「ただ帰依だ」:
   最終的に重要なのは、仏法への全面的な信頼と帰依(依りどころとすること)であると結んでいます。

この文章全体は、世俗的な見方(相対的・分別的)と仏教的な見方(絶対的・無分別)を対比させ、仏法の超越性と帰依の重要性を強調しています。禅の思想における「分別」から「無分別」への移行、そして最終的な悟りの境地を簡潔に表現しているといえるでしょう。

 

なるほど、そういうことが書かれていたのか。難しい言葉が多い。よく勉強されていたのだなと改めて感心する。

 

仏となるとはどういうことか?最近それを考える。仏道を歩むとは、仏を目指すことだろう。ならば、仏となるとはどういうことか?仏とはどういったものか?

 

仏となるということは、智慧になるということか。

 

ここに書かれていることは、仏になることの困難さ。阿弥陀仏への帰依しかないということだろう。実際そう思う。ここでいう、世間道で何か極めるということと本質的に異なる。それは価値観ということでもなく、上手い表現はないのだけど、ここでは超越という言葉も出てきたか。

 

学問の世界にいて、少なくとも自分より遥かに優れた人というのをそれこそ数多く見てきた。とても敵わないというのが一瞬でわかる。それは敗北ではなく、ある種の認知だ。ただ、全ての面で敵わないわけでもない。これも認知である。

 

仏法というものを真に理解することは、人間には実は無理なことなのかもしれない。近い将来、超知能を得たAIというものが出現されると言われる。人の知性を超えた知性。それがどういうものかは、我々人間には理解できない。先の、学問の世界で、自分を遥かに超えた知性を持つ人の考え方、その考えに至る道筋がわからないように、全ての人類が集まってもその超知能の考えが理解できないということも起こりうるのだろう。ただ、超知能であるが故に、それを「標準」知能である人間に優しく伝えることはできるだろう。その超知能が語ることが、仏法的なことであれば面白い。

 

仏法というか、お経の表現はそのようなものである気がする。表現不可能なものを、表現する。それは比喩であろうし、全体を理解できなくとも、ある種の断面であれば理解できるのかもしれない。超知能がもしも現れたら、まずは、仏法または悟りとはどういうことかを、解説してもらいたいものだ。

 

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