浄泉爺のブログ

浄泉爺の考え事を記録します(研究のこと、仏教のこと、教育のこと、ドローンとか)

相手の身になって考える

先日、ちょっとした事があって、そもそも相手の身になって考えるとはどういうことかと考えはじめた。

 

どういうことがあったかというと、次の様な些細な事。

 

椅子が二つあり、それぞれAとBと名付けよう。私はAという椅子に主に座る。もう1人そこには人間がおり、その人はBという椅子に主に座る。主に座るというのは、別に決まった事では無く、単なる成り行きである。

 

真ん中には机があり、物を置くことができる。我々は共に手には書類をもっている。

 

さて、椅子に座ったり、その辺りをうろうろしたりする状況がある。(不自然だがそういう状況があると考える。)

 

私は書類を机に置き、主にAという椅子を利用して座ったり歩いたりする。椅子Aの上には何も無い。もう一方の人は、何故か書類を椅子Bの上に置き、書類を取ってBに座ったり、椅子Bに書類を置いたまま椅子Aに座ったりする。

 

もう一方の方が、椅子Bに書類を置いたまま、椅子Aに座っているとき、私は、椅子Aには座れない。なぜならもう一方の人が座っているから。では椅子Bに座れば良いのだが、そこにはもう一方の方の書類が置いてある。

 

結果、私は座れないわけだが、この状況はどのように考えるべきか。

 

私は当初、椅子Bに書類が置いてあるため、私が座れないという事を、この方が気が付かないのは何故だろうかと思った。これは、タイトルの通り、私の身になって考えると、もう一方の方の書類が椅子B上にあり、それを勝手に動かすのは気がひけるため、結果として座ることができないと考えるから、椅子Bに書類を置いたまま椅子Aに座るわけが無いと考えたから。

 

しかし、しばらく考えて、次の様な可能性も考えた。

 

私が座らない理由がその方にはわからない。つまり、その方が同様の状況になった場合に、椅子B上の書類を机に移動させて座るという行動を自然に取るのかもしれない。そうなると、私の身になったとしても、椅子B上に書類を置き、椅子Aに座ることは何ら問題無いと考えられる。もちろん、書類を動かす手間はあるが、自分がその身であれば何ら苦に感じないのならば、正当化されるだろう。

 

どちらなのだろうか。

 

私しならば、もしも書類を椅子Bに置くのであれば、Aという椅子に座ることはせず、椅子Bのみを使うと思う。そもそも、書類を椅子の上に置き、椅子を自分用として占有するような状況を通常は作らない。ただ、そもそも、書類を椅子の上に置くことが占有することにはならないと考えるなら、それはあまり問題とはならないのかもしれない。

 

何を気にしているのかというと、もしも常識が変化して、椅子の上に物を置こうがなんだろうが、座りたければそれをどけて座れば良いというのが、共通認識となっているなら、私がもう一方の人に感じていた、相手の身になって考えることができないのだろうか?という考えはそもそも通じない。むしろ、私の身になって考えた結果の正しい行動なのだ。逆に言えば、私の常識がずれているのであって、今の常識で相手の身になって考えるなら、椅子B上に物を置いて椅子Aに座ることは何ら問題無いことになる。まさか私が、なんでこんなことになるんだ?と不思議に思っていることが不思議な事だろう。

 

 

今回の件については、恐らく、そもそもそこに問題が生じていたことを、もう一方の方は認識されてないと思う。つまり、私の身になって考えるということが単にできていなかったのだろうと思う。であるから、上記の考察は単なる私の考えすぎである可能性が高い。

 

この例は、特殊な例だとは思うが、他の日常的な事においてこういうズレが世代間に生じる可能性があると思う。つまり、相手は確かにこちらの身になって考えた上で行動しているのだが、こちらの常識が相手のものとずれている為に、相手の身になって行動できない人と誤って捉えてしまう事がありえる。

 

まぁ、ここまで書いてきて、実はこれは良くある事のような気もしてきた。常識が常識であるのは、その常識を共有しているグループ・集団だけであって、それが異なれば当然相手の身になって考えた行動も非常識となる。ややこしくなってきたが、つまり、相手の身になって考えることができない奴だなんて言い方はそもそも常識の共有を前提にしていて、例えば、他国の人との間で、相手の身に・・なんてことを言っても恐らく意味が無い。

 

相手の身になって考えなさい

 

と良く言われてきたように思うが、これは結構、様々な問題を生み出す可能性のある考え方かもしれない。

 

自分のもつ常識を元に、相手の身になって考えることは悪いことでは無いし、そうあるべきだと思う。ただ、一方で他の人がそうで無いからといって、それを一方的に非難することもできないだろう。

 

そんなことを考えさせられた経験だった。